【若院の雑記】安居について
先月7月18日から31日まで、
ご本山(西本願寺)の「安居」に参加しておりました。
聞き慣れない言葉かもしれませんが、
仏教には「安居」という特別な期間があります。
「安居」の読み方は「あんきょ」ではなくて「あんご」です。
安居の期間がいつ頃かといえば、本来は雨季です。
安居とは? その起源

仏教発祥のインドでは乾季と雨季がありまして、春から夏にかけての三ヶ月間が雨季になります。
カラカラの乾季が終わり、雨が大地を潤すようになると、息を潜めていた虫などの小さな命が生き生きと這い出してきます。
すると困るのはお坊さんたちでして、毎朝の托鉢(修行僧が街を歩き、食べ物を乞うこと)や、伝道(法を説くこと)の旅に出にくくなります。

年に一度、托鉢をする伝統がありました
激しい雨も外に出にくい理由の一つですが、なにより大地には精一杯にうごめく小さな命が溢れているのです。
うっかり道を歩いたら「殺生」をしかねません。
お釈迦様はどんなに小さな命も大切にされました。
そこで雨季の時期は、
お堂や洞窟などに籠もって、仏様の教えを研究し、修行するという制度ができました。
あらゆる命を害さないために、一箇所に集まり、僧侶が勉強をする。
この期間を「安居」といいます。
日本でも、互いに僧侶が研鑽をする期間に
その後、仏教伝来とともに「安居」の制度がインドから中国・日本へと伝わります。
中国や日本には、インドのような明確な乾季と雨期の切り替えはありませんが、日本でも形を変えつつ各仏教教団にこの伝統があり、現在でも安居の期間中に講義や研修会が開かれたりします。

浄土真宗本願寺派の安居
僕の所属する「浄土真宗本願寺派」にも安居の伝統が残っています。

龍谷大学のルーツでもある本願寺派の安居は、
江戸時代(1640年)から380年にわたり毎年開催されています。
毎年7月下旬の2週間、京都の本願寺(龍谷大学の本館講堂)には、日本全国から毎年70〜100名ほどの僧侶が集まり、互いに研鑽し合うのです。

朝、おつとめをした後、「講義」を3つと、「会読」を通して学びを深めます。
会読(かいどく)というのは、
み教えについての理解を、問答を繰り返して解明していく勉強方法です。
通常の御講師(和上)から受講生へという「講義形式」ではなく、毎日、6組の僧侶が問者(もんじゃ)と答者(たっしゃ)に分かれて「問答形式」で研鑽するのです。
問者は質問をし、答者が答え、その答えを受けて問者が更に質問をして問答を進めていきます。
僧侶が、互いにお聖教(しょうぎょう)を拝読することを通して、宗祖・親鸞聖人の意(おこころ)をうかがう大切な学習方法といえるでしょう。
問者と答者は、御講師や他の受講生が一言一句、耳をそばだてる中で問答するので大変緊張します。
「岡目八目」という言葉がありますが、
囲碁の時、対局者よりも外から眺めている第三者の方が先が読めるというように、実際に自分が会読をする立場になると、思うようにはいきません。
勉強の力の7割ほどが出せれば、まずまずというところです。
うまく受け答えできるときも、できないときもありますが、どちらにしても、自分一人で学ぶだけでは気が付けない、自分の理解の穴が見えます。

今年はインターネット越しで開催
今年の安居は、コロナ禍により、インターネット会議ソフトZoomを介しての開催でした。
御講師方は京都から、受講者は各自のお寺や自宅から、インターネットを通じて講義や会読問答に参加しました。
インターネット越しでの開催は、本願寺派の安居史上初めてのことです。
開催する側の安居事務局の方々には、インターネット安居を苦心して準備いただき、おかげさまでスムーズに参加することができました。
参加しての感想ですが、インターネット越しの安居は良い面と悪い面がありました。
良い面は、言うまでもなく自宅から参加できる点です。
外泊だと量の問題で持ち出せない手持ちの書籍や資料、プリンターなどの機材が使えること。
それに単純に移動する必要がないというのは、体力的な負担が小さかったです。

悪い面は、日本全国から集まる僧侶・法友の方々と交流できなかったことです。
それと会読は、講堂で顔を突き合わせて行う場合と、インターネット越しでは緊張感が違いました。
講堂で行う会読は、何十人から注目されていることを意識してですが、インターネット会読は、画面上に問者と答者と御講師方しか表示されません。
ある程度、心理的な距離感があるので、落ち着いて会読できたように思います。
ともあれ、浄土真宗本願寺派の歴史上で、かなり特別な安居に参加できてよかったです。
来年はぜひ、京都で直接参加できればと思います。
