【妙覚寺8月の法話会】『歎異抄』を読む①・インド音楽
8月の妙覚寺法話会は、
住職による『歎異抄』の法話と、
インド音楽の演奏会の二本立てでした。

この日の午後の気温は32度。
熱中症対策(冷たいお茶を配布)に加え、
感染症対策(マスク着用・距離をとる・換気)をしながらの実施で大変でした。
そして、今年は長引いた雨により、急いで稲刈りを終わらせて来てくださったご門徒さまもおられました。

『歎異抄』とは?
今回から、法話会では『歎異抄』を拝読していきます。
『歎異抄』は、親鸞聖人のお弟子であった唯円房(ゆいえんぼう)が記したとされる書物です。
世界的にも有名な宗教書で、多くの知識人にも読み継がれてきました。
若い方の中にも親鸞聖人や『歎異抄』の言葉をご存知の方は、意外とおられます。
親鸞聖人が残されたメッセージをご一緒に味わいます。
第1回目は、プリントをもとに『歎異抄』の後序(あとがき)から読んでいきました。
異なることを歎いた書物
歎異とは、
異(異なること)を歎く(なげく)という意味です。
親鸞聖人がご往生された後、
親鸞聖人の教えを誤って受け止めてしまい、疑惑(まど)う者がいることを歎き悲しまれた唯円房が書かれたのです。
一体、何が異なるのでしょうか。
後序にはこのように書かれています。
『歎異抄』後序より
(註釈版 851ページ)
一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。
なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。
(現代語訳)
同じ親鸞聖人の流れをくむ同門の行者の中に、親鸞聖人の信心と異なる事が無いようにと念じ、悲しみの涙をぬぐいながら筆を染めてこの書物を記しました。
それゆえ『歎異抄』と名づけました。念仏にこころざしのない人には見せないようにしてください。
『聖典セミナー 歎異抄』梯實圓和上・著(本願寺出版社)より
念仏者のなかに、
親鸞聖人のご信心と違った信心をもつ者がいたと指摘されています。
「信心が違う」ということは、
阿弥陀如来よりたまわった他力(たりき)の信心ではなく、
自分の心を頼みにしてつくった自力の信心であるということです。
阿弥陀如来よりたまわる信心
信心をたまわるということは、
「必ず救う」という阿弥陀如来の仰せをそのままに聞き受けることです。
阿弥陀如来はお念仏を通して「必ず救う、我にまかせよ」と私たちに呼びかけておられます。
その呼びかけを、まるまんま、そのまんま真受けにしていただくのが信心です。

浄土真宗では、古来より御信心(ごしんじん)や御安心(ごあんじん)ともいわれます。
尊敬表現として使われる「御」という文字は、私ではなく、相手に対して使うものです。
阿弥陀さまよりたまわる御信心でありますから、人間の智慧や学識は関係なく、信心が異なることはないのです。
このポイントをおさえて『歎異抄』を読み解くことが第一回目のテーマでありました。
次回から、この内容をもっと深く学んでいきます。
「音で旅するインド」Lilynaoto(リリーナオト)
法話のあとは、
皆さんが楽しみに待ち望んでいたインド音楽ライブ!!!

毎週水曜日に「お寺ヨーガ」を開いてくださっているリリーナオトさんご夫妻。
お二人は、渡印を重ねて、インド古典音楽を学ばれたそうです。
音×ヨーガを組み合わせたワークショップ・演奏会、インド楽器の伝承など、各地でご活躍されています。
インドに伝統的に伝わる古典音楽、祈りの歌、その地域ならではの生活の中に馴染んだ伝統民謡など、インド音楽を今まで聴いたことのない人には、とても興味深い内容です。

午前中からセッティング、音合わせを丁寧にしておられました。
少しだけ楽器の名前も教えていただきました。

↑タンプーラという弦楽器。

↑タブラーという打楽器。
アルゴーザ & サッタラ(笛)モールチャング(口琴)

いざライブが始まってみると、
本堂の空間が、インドの風景に変わったようでした!
インド砂漠地方を感じさせる音楽、
踊り出したくなるようなにぎやかな音楽、
ガンジス河ベナレスを思わせるゆったりとした心地よい音楽。

リリーさんの素敵な歌声に、ナオトさんの洗練されたタブラー演奏は、息ピッタリ!
30分の生演奏があっという間でした。
「最高のひとときを過ごせました」と絶賛された方も。
また機会があれば、ぜひ生演奏で聴いていただければと思います!

お寺ヨーガが始まって、色々な人とのご縁の和が広がっています。

子ども達が、本堂で走り回る光景。

鐘をついて楽しむ姿も、今ではなかなか見られないかもしれません。
少しでもお寺が心の依りどころになることを念じています。