【浄土真宗の教章きょうしょう】〜私の歩む道〜

宗名しゅうみょう浄土真宗じょうどしんしゅう
宗祖しゅうそ親鸞聖人しんらんしょうにん
【ご誕生】1173年5月21日

平安時代・末期
【ご往生】1262年1月16日

鎌倉時代・中期
宗派しゅうは浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺派ほんがんじは
本山ほんざん龍谷山りゅうこくざん 本願寺ほんがんじ西本願寺にしほんがんじ
本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい南無阿弥陀仏なもあみだぶつ
経典きょうてん浄土三部経じょうどさんぶきょう
・『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』…大経だいきょう
・『仏説観無量寿経ぶっせつかんむりょうじゅきょう』…観経かんぎょう
・『仏説阿弥陀経ぶっせつあみだきょう』…
阿弥陀経あみだきょう
教義きょうぎ阿弥陀如来あみだにょらい本願力ほんがんりきによって
信心しんじんをめぐまれ、
念仏ねんぶつもう人生じんせいあゆみ、
このえんきるとき
浄土じょうどまれてぶつとなり、
まよいのかえって人々ひとびと教化きょうけする。
生活せいかつ親鸞聖人しんらんしょうにんおしえにみちびかれて、
阿弥陀如来あみだにょらいのみこころき、
念仏ねんぶつとなえつつ、
つねにわがをふりかえり、
慚愧ざんぎ歓喜かんぎのうちに、
現世祈祷げんぜきとうなどにたよることなく、
御恩報謝ごおんほうしゃ生活せいかつおくる。
宗門しゅうもんこの宗門しゅうもんは、
親鸞聖人しんらんしょうにんおしえをあおぎ、
念仏ねんぶつもう人々ひとびとつど

同朋教団どうぼうきょうだんであり、
人々ひとびと阿弥陀如来あみだにょらい
智慧ちえ慈悲じひつたえる教団きょうだんである。
それによって、自他じたともに
心豊こころゆたかにきることのできる
社会しゃかい実現じつげん貢献こうけんする。

阿弥陀仏あみだぶつ」の名前の由来ゆらいを教えてください。

「アミタ」という語には、はかることが出来ない、無量むりょうかぎりない」という意味が込められています。何が限りないかと言うと、ひかり寿命じゅみょうに限りがないというのです。
もともと古代インド語で、アミターバ無限むげんひかりをもつもの=無量光むりょうこうで、アミターユス無限むげん寿命じゅみょうをもつもの=無量寿むりょうじゅという意味をもちます。

その阿弥陀仏あみだぶつと私にどのような関わりがあるのですか?

阿弥陀さまは、限りない光(無量光むりょうこう)と寿命(無量寿むりょうじゅを持ち、その智慧ちえ慈悲じひをもって私たちを導きます。『正信偈しょうしんげ』には、阿弥陀さまの光の徳が、12通りの異名いみょうたたえらていますので、阿弥陀仏を別名十二光仏じゅうにこうぶつともいいます。
ひかりは、あらゆるものを照らし、あきらかにします。

このに対する言葉が無明むみょうやみです。明かりがない、暗闇くらやみで何も見えないということですが、この言葉は仏教では「私のまよい・おろかさ」のことをいいます。
我が身をわずらわし、心をなやますものを煩悩ぼんのうといいますが、この煩悩を死ぬまでちきることが出来ず、苦しみ続けるのが私の姿であると阿弥陀さまは見抜みぬき、すくわずにはおられないのです。

なぜ阿弥陀あみださまのすくいが私に必要なのですか?

私のかかえるまよい・おろかさとは、自己中心的じこちゅうしんてきにしかものを考えられないありさまを指します。
自分に都合が良いか悪いかで物事の善悪ぜんあくを決めつけ、自分の都合の良い人をあいし、悪い人をにくんでしまう。財を求め、愛を求め、得られた時には失うまいと悩み、得られなければねたみ悲しむ。人生を愛と憎しみのうずの中で、身も心もすり減らしているのが私の姿です。

阿弥陀さまのさとりの智慧ちえとは、自己中心的なとらわれを離れ、一切の生きとし生けるものを平等びょうどうにごらんになる境地きょうちです。
その智慧ちえから起こる、一切いっさいの生きとし生けるものを救いたいという慈悲じひの心で、私を照らし続けるのが阿弥陀さまなのです。

浄土真宗の念仏者ねんぶつしゃは、阿弥陀さまの光のはたらきである、南無阿弥陀仏なもあみだぶつのお念仏を人生のたよりとする者です。
私たちは、生きている限り、自己中心的な想念そうねんまどわされ、苦しみ悩み続けます。その私のおろかさと苦しみを、阿弥陀さまは我が身のこととして、悲しみ目覚めさせようとはたらいておられます。
その阿弥陀さまの智慧ちえ慈悲じひ御心みこころをお念仏から聞きとるのです。

それこそが阿弥陀さまの光に出遇であということです。